山月記(中島敦著)を読んで



「それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである」

 

虎になった李徴(りちょう)とその友を思う袁傪(えんさん)。

 

この話は1時間ほどで読める短い小説だけに、教科書などでも頻繁に取り上げられています。

 

自意識が強すぎるがゆえに苦しんだエリートの葛藤

 

そのためか

人として生きることを止めれば苦しさから解放される。

苦しみのないトラとして生きた方がしあわせだと考える李徴。

自分として生きることを放棄したとも感じられる李徴の言葉。

 

 

ただ、最後に袁傪に見せた強い自意識の姿「醜い姿」というのは

本当に醜かったのでしょうか?

 

誰もが持つ自意識ではありますが、それをコントロールできなかったと嘆く李徴のその姿を

袁傪は本当に醜いと思ったのでしょうか?